緑が青々としてきた

実家にて。

やせちった。咳をして黄色い痰を吐いてた。風邪ですか?
きのうは月が大きい夜。真夜中に目が覚めてベランダでじっと見る。向こうでも同じことしてる誰かがいるかな。
少し冷えたので部屋に戻り「新潮」に掲載されていた柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』をようやく読み出す。気が付いたら起きだした鳥たちの声がした。とてもおもしろくてため息が出た。
父と映画に。『ル・アーヴルの靴みがき』が観たいということだったけれど、シネマテークは階段があって無理。第二候補の『わが母の記』にした。人が少なそうな港区にある映画館を選んで。良い映画。つらつら泣いてしまった。悟られぬよう拭わずにいてただしずくは落ちるのみ。

夜桜能


夜桜能。靖国神社にて。
火入れ、狂言に続いて能は「石橋」。何度か観ている演目で、獅子が牡丹の下で激しく舞うパフォーマンスはいつも素直に楽しい。
獅子は架空の存在で、人間はなぜ獅子という存在を思い描き、そしてあのような姿を想像したのだろう。
見たことが無いけれど、いてもおかしくないと感じた存在をイメージし、その姿に似せた衣装を身に付け、なかには人間そのものが入り込み、獅子として舞う。
激しく舞えば舞うほどに、想像と実際(獅子と人間)が撹拌されて全部今、目の前の本当になってしまう。
能を観るといつも感じることは、目の前の世界だけが実際に存在するものではないという感覚。それを強く感じることができるのは自然と一体化した屋外での能。人間、自然、想像が一緒になる時間ということ。それを一緒にしているのは(例えば)能。
演劇などで社会性というキーワードがあったりするけれど、社会というのは人間のにおいそのものがもちろんするのであり。人間のにおいとはまたひとつ別のところでの、あり得るかもしれない世界を感じることは、逃避ではなくむしろ見つめ直すために自分にはひどく大切。

この日はしばらく居ると冷えに気がつく程度の気温で、ついさっき弾けたように蕾から顔を出す初々しい桜の春だった。

檜洞丸


3月26日、檜洞丸。天気予報の雨マークがとれて喜んだものの、途中で大粒のヒョウ。引き返す。ひさしぶりだったけれど、心地よい疲れ程度。新しい山メイツもこれまでで一番がんじょうな体力の様子。9時半に新松田駅に集合してから19時半に相模大野で別れるまでしゃべり通す。よくあんなに話すことがあったなぁ。山に行くと一緒にいるヒトと密閉された時間になるので、相性が著しく分かる。

下山する頃には晴れ間。

また来ます。

夜桜能

山の良いサイト
http://mimi.naturum.ne.jp/c20086020.html

ことしは1月に一度弘法山に登ったきり
春待ち。そろそろ。

まもなく案:檜洞丸、ユーシン渓谷
ユーシン渓谷は一部歩行不可能となっていた道の工事が完了したとのこと。朗報。

4月2日は夜桜能。
去年は中止になったのでおととし以来。山と同じくらいに楽しみ。参道からスキップ踏んじゃう。能は薪能に限る。自然の驚異やあの世とこの世またはその間の世界を受け入れる儀式のように感じる。となると山登りとさほど遠くない。ということで山と同じくらいに(似た感覚、テンションで)楽しみなのかしら。らららん。

雑記

きょうはゆきになるそうな。起きたら白いかな。
しょうがのせん切り山盛りをいろいろ使い回す。牡蠣の佃煮、新ジャガの煮っころがし、豚肉の含め煮。ぜんぶ、しょうがのせん切りで最後に蓋をして火を通す。あったまり料理。

はああああ
さむいのもうそろそろ、そろそろなぁ。

やまへ行ったり、去年大山で観た神楽、のような、背景にやまなみがあってまるでそこから下りてきた輪郭の無い神様の、見えない姿を無理に可視化したような獅子たちの舞いが観たい。山や自然との関わり方を模索するような舞い。不可解なことへの手探りのような。さみしいくらい晴れた日に素っ気ない田舎で。

観たかったものが遠くにあった場合(物理的ver.)

メモ
日暮里でおいしい蕎麦屋。たか山。
黒沢美香さんの公演をd倉庫へ観に行った後に見つけたとこ。刺身も美味。日本酒が当たり前にメイン。

2/24 神戸のダンスボックスへ。
トンボ帰りの予定にしてしまったことに後悔。目当ての公演を観ることができるようなスケジューリングで出かけるのではなく、それ以外の時間も含まれたスケジューリングでないと観る時間が日常から切り取られ、ひどく浮いたものになり意味が薄まる。上演されていたもの、それ自体はものすごく贅沢な内容。「わざわざ出かける」というのは、むしろなにかを手に入れる方法を分かっていない行為で、常に、ほんとに欲しいものは「ついで」くらいの距離をおいて、つまり余裕を持って本質に臨むべきなのかもしれない。手に入れたいコアな部分が浮き足立った特別にならないように。

※備忘
わたしが、観光という行為に、興味を持たずに来たのも、そういった理由だったのだという整理。