仏像、あとメモ

4/19 『白州正子 神と仏、自然への祈り』(世田谷美術館
仏像は寺で観るに限るなぁと改めて思う。けれどもこれを寺のなかで観てしまったら震えてどうしようもなくなったろうという仏像あり。「焼損仏像残闕」(松尾寺)。その名前の通り仏像が焼けてしまい、中心部のみが残っているもの。仏像はきれいにフォルムを残している保存状態が良いものよりも、欠けてしまったり、損じて木がむき出しになる部分が見えるものが美しく写る。朽ちて在るほうがかつての完璧を終えてまた木の姿に戻るようでその時間やできごとへの想像を含めて生々しい。
夜は公共ホールについて話す勉強会にいく。
memo
公共性、公益性について個人的でも良いので意見を自分のなかにストックすること。それをわたしのなかで租借してわたしのいる場所で発信していくこと。
わたしのいる場所の公益性は他とは違う部分があるはずで(違わなくてはならないのではないけれど)、わたしはなにと思うか。考えるか。
それはこれまでの活動の問題点なり課題から出てくるものとも思われた。そこに光をあててこれこれが公益性と考えます、そのためにこれをするのが有効と思われますということ。それがわたしのいる場所のオリジナルな公益性でもあり、公共ホールとしてのオリジナリティにつながる。公共、公益について普遍的であるものと地域個別であるものとわけて、そして並行して考えていくこと。あと、公共ホールとしてのオリジナリティはその地域のオリジナリティにつながり、まあ、いわゆるシティセールスにはなる。。
これこれをするのが有効ですの、これこれについて考える。おもに説得力。わたしは有効だと思っているけれども、なぜに答えること。できればというか理論武装とかではなくて。でも前提を共有できない場合、何処から始めたら良いのかなぁ。そして結果も出さなくてはならず。しかし結果というときの評価軸の置き方なども事前にきちんと設定する?など。つづく