夜桜能


夜桜能。靖国神社にて。
火入れ、狂言に続いて能は「石橋」。何度か観ている演目で、獅子が牡丹の下で激しく舞うパフォーマンスはいつも素直に楽しい。
獅子は架空の存在で、人間はなぜ獅子という存在を思い描き、そしてあのような姿を想像したのだろう。
見たことが無いけれど、いてもおかしくないと感じた存在をイメージし、その姿に似せた衣装を身に付け、なかには人間そのものが入り込み、獅子として舞う。
激しく舞えば舞うほどに、想像と実際(獅子と人間)が撹拌されて全部今、目の前の本当になってしまう。
能を観るといつも感じることは、目の前の世界だけが実際に存在するものではないという感覚。それを強く感じることができるのは自然と一体化した屋外での能。人間、自然、想像が一緒になる時間ということ。それを一緒にしているのは(例えば)能。
演劇などで社会性というキーワードがあったりするけれど、社会というのは人間のにおいそのものがもちろんするのであり。人間のにおいとはまたひとつ別のところでの、あり得るかもしれない世界を感じることは、逃避ではなくむしろ見つめ直すために自分にはひどく大切。

この日はしばらく居ると冷えに気がつく程度の気温で、ついさっき弾けたように蕾から顔を出す初々しい桜の春だった。