水石

オフ。秋晴れ。部屋の窓の外から高くなった空を見ながらぼーっとするのは気持ちいい。
先日意図せずして盆栽美術館たるものに行くことになった。興味はあるのでわくわくして出かける。学芸の人の解説付だった。盆栽の歴史や事実を淡々と伝えつつもにじみ出てしまう盆栽に対するその人の熱狂がとても素晴らしかった。盆栽自体は、作り手がイメージする木のかたちを一年ないし二年後の成長に合せて針金などを使ってコントロールしていくもので、あまり面白みを見いだせなかった。展示されているものが、そのコントロールが「うまくいった」ものばかりだったからかもしれない。コントロールが不意な方向に行ってしまった結果みたいなものが展示されていたら、自然と人工の拮抗の様々から美しさやすごみの広がりを感じられた気がする。
一方で「水石(すいせき)」という遊び(?)について大変興味深く聞いた。その名の通り、石が対象物。今回見た水石は赤茶けていて、溝が幾つもあり、その溝は白く濁っている。石を山に見立て、溝は川であり、そのようにじっと見ていくとやがてそこを歩いている自分が見えてくるという!その解説にものすごくテンションが上がってしまい、わたし素人だし人一倍時間が必要、と集団から遅れてずっと見続けていたけれどタイムアウト。自分は現れませんでした。目視できるものをイメージで別のものに変換するところまでは分かるけど、それをもって不可視のものを目の前に登場させるには、何が要るのかな?ストーリー?内観?対象物を超越した想像?もっと試していたい作業だった。。でも日常でもできそうだ。そのためには時間を作って、そして退屈である自覚をもつことだと思った。ただのんびりするのもいいけど、あまりに退屈じゃないと、黙して語らずとのこんな遊び、思いつかない気がする。それにこの遊びに集中もできない。もっと時間に自覚的になって、そして退屈に意識的になって水石を。。たぶんこれ、相手が石じゃなくてもいい。