ぜいたく

もう何日か前になるけれど、シンガポールのチョイ・カファイという人の『ノーション:ダンス・フィクション』というダンスパフォーマンスがとってもおもしろかった。知性めいっぱい。。。カファイ氏が舞台を通して提示したい視点は確実にぶれずにあって、着地点はそこに定まっている。そこまでのプロセスは笑ったり、疑ったり、観る側はとても自由だ。でも結果的にカファイ氏の視点にぐっと持っていかれる。思わずうなってしまう。
M氏がカファイ氏の友人と言うことで、終演後チームメンバー諸々との飲み会にノコノコついていく。行き道一緒だったスタッフの方はなんてまあ、私のためにゆっくりと話していてくだすったのでしょう。飲み会のテーブルではおよそ4倍速の英語による会話。目の前を通り過ぎていくコトバたちを耳ではなく目で追う感じ。もつ煮をつつきつつ、おいしいねーってたまに目配せ。スタッフからカファイ氏が非常にロジカルな人であることを聞く。やっぱりなー。ロジカルで、でもコトバの国の人じゃない人ってほんとうっとりだ。
後日M氏に感想を改めて話す。おもしろかった、でも単純にショックだったことがある。そもそも私は何故この公演に行ったのかというと日本じゃないアジアの人の作るものを観てみたかったからだ。ひどく勝手なアジア的なものを想像しながら。けれども、カファイ氏が舞台上にも出した、影響を受けたという数々のダンサーの振付け映像は、そのほとんどが西洋のものだったこと。そして日本の土方巽の映像が出てきたけれども、どうやら彼にとってそれが一番の異物、他者的なものとして取り扱われていたこと。シンガポールってだけで、アジアの〜なんて、すごく安直だった。そう伝えると、シンガポールは西洋の影響を大きく受けている国であること、舞台フェスティバルというもの自体も西洋のものであり、それに組み込まれているものだということを気にしてもよいということ、そして芸術そのものも西洋が作ったものだということを聞く(このあたりで目から鱗がぽろぽろと落ち、頭のなかで拾い集める)。「西洋は何故、芸術を作ったのかな」と問うと「フラットなものをね」みたいな回答で「何故フラットなものを?」と重ねて問うと「民主主義とかさ」。
自分に新しいものの見方が宿るということはこの上ない喜び。カファイ氏の作品を観たことにしても、M氏と話した内容にしても、わたし、贅沢者、しあわせ者だぁ、なんてほくほくしてしまった。でも、あれだな、なにも知らずに生きてきましたと吐露したような時間だった。

◎メモ
ひさしぶり民俗芸能情報:淡路人形芝居
文楽の原型だとか。
私が想像している「アジア的なもの」はつまり、このような民俗芸能的なものにしか残っていないのではないか説。